buttoblog

ぶっとび(buttobimusic)の音楽活動や演奏会感想など書いてます。ご依頼もこちらから!

「さみしさ」について。今の私に必要なのは

さみしさ、について。

寂しさ、淋しさ、どっちでもいいけど悩むリソースが勿体無いのでひらがなで。

 

サブログにお別れについて書いた後、

さみしさについて書いてたら思いのほか長くなった&
ちょっと自分的に残しておきたい展開になったので、こっちのメインブログに載せることにしました。

寂しがり屋なんだよね〜原因わかんないんだよね〜このへんキーワードだと思う〜みたいな内容です。

 

ぶっとびはさみしがりや

ぶっとびはさみしがりなんですよ〜。自他共に認める寂しがり屋。

だから「さみしい」っていう感情を揺さぶってくるものが苦手です。あまりに同調してしまう。

マジ『ARIA』でアリア社長が誰かいなくて探してるときに誰もいなくてぎゅってぬいぐるみ抱きしめるコマ一生覚えてる。(細かいシチュエーション違うかもだけど、その一コマのさみしさを覚えてるって話)
他にも、『つる姫じゃ〜』で父の日に父上が雨の降った公園で残されたボール片手にしょんぼりひとり立ってる一コマも一生覚えてる。

どっちもその後平和だし、そのさみしさがめっちゃ重要なシーンてわけでもないのに、なんか強烈な印象で残ってしまってるんよな。

 

明確なきっかけがなくとも、これまで経験したさみしさが押し寄せてきてそのあまりのさみしさに押しつぶされそうになることも、たまーにあります。

 

でも世間的なさみしがりのイメージとはたぶんちょっと違ってて。

大勢の人がいるところを好む、ってわけでもないし。
友達いっぱいいるーとかでもないし。
ひとりになりたくないわけでもないし。
物に囲まれたいわけでもないし。
連絡が頻繁でもないし。
恋人に依存して、四六時中一緒にいてほしいとかもないし。

 

でも性質としては、依存性があるかなとは思ってる。

子供の頃から誰かの特別になりたがってたしね。
誰かと特別な関係で繋がってることで安心感を得ようとしてる、のかな。

そういう意味では「恋人」という特別な関係ができたら少しは変わるのかなと思ったけど、根っこは変わってない気がする。

秋がさみしいから苦手なのも彼氏ができてもまったく変わんないしね!!

 

別にさみしがりやなことを「ダメ」と思ってるわけではなくて。

でもさみしがりなことでしんどくなる場面が多い気がしてて、それが少しでも楽になれればなぁっていう。

 

余談:恋愛以外の話もしようぜ

話はちょっとそれますが、さみしさとか依存性について検索かけると、ほとんど全部「対恋人」の話しか出てこなくてさ。

うるせえなあ!!!!!!ってなるんよねw
なんかそんな、恋愛以外もあるだろうよ!!!!!!!

世のポップスがラブソングばかりなことにもたまに「うるせえなあ!!!!」ってなるからそれと一緒です。

世の中恋愛に対する比重が大きすぎない???ついていけん。

 

余談2:こういう話はネットより本

そしてこういう内容について深く考えたいときは、ネットで検索するより本を買った方が格段に有意義だよね。
ここ数年での知見だよ。

内容ももちろんだし、前も書いたけどネットで読むより本で読んだ方が集中できるしね。

というわけで、また一冊買ってみました。読むの楽しみ。

 

原因を探るも見当たらず

だいたいこういうのって「育ち」的なところに焦点が当たると思うんだけど、
親からの愛情が少なかったとは思えないんだよなぁ。むしろ愛情いっぱいで育てられたと思う。

幼少期の友達関係とか、姉との関係とか、大好きだったものとか、場所とか、出来事とか。
そういうのも全然、「こういうことがあって猛烈にさみしかった」と思えるものはないんだよなぁ。

覚えてないところで、何か、当時の自分的にはすごくさみしかった出来事があるのかなぁ。
さみしすぎて辛くて、もう思い出さないようにしまってあるのかなぁ。

 

ただ、昔から依存する対象物があった感じはします。

小学校上がるまではずっと大好きなタオル→ぬいぐるみが手放せなかったタイプだし、
携帯持つようになってからはそれが携帯に代わった感じもするし。

姉が結婚で家を出たときも、その日からしばらくものすごいさみしかったんよねー。
さみしいさみしいうるさかったと思うから、当時の友達にはごめんねの気持ちがあるよw

 

やっぱりそれは、今あるものがなくなってしまうことへの不安、なんだろうか。

執着をなくしたい、ってところに集約するのかなぁ。

 

うーん、そうな部分もあるけど、違う部分もある気がする。

 

キーワードになりそうな言葉たち

「人はみな孤独である」って話が大事な気がする。仏教の考え方ですね。
人はみんな独りで生まれてきて独りで死ぬんだということ。

その、人がみな孤独であるということが、たださみしい。
でもそれは事実なわけで、どうすることもできず。
どうすることもできないから、苦しいわけで。

でもどうすることもできないことは、受け入れる・諦めるしかないわけで…。

どうすることもできない「さみしさ」を普段は意識せず生きていけるんだけど、ふとしたこと(お別れ)で意識せざるをえなくなったときに、同時に「孤独」をダイレクトに感じてしまって、それが辛いのかな。

 

こういうときに先日のコンサートで入ってたこちらのポストカード、何か縁を感じてしまうよね。

f:id:buttobimusic:20231105105803j:image

川口さんはヴィーブレで知ってるくらいなんだけど、世界観好きです。

 

あとはスナフキンの言葉だっけ、「ものがなくなっても思い出はずっと残る」みたいなやつ。
その考え方も今の私に必要な気がする。

 

「さみしさ」と仲良くなりたい

今気づいたけど、さみしさに対して苦手意識強くて「あんまり関わりたくない」、になっちゃってるかもしれない。
あんまり関わりたくないって、それこそさみしいよねぇ。

だから、誤魔化したり、どこかへ追いやったり、見ないようにするんじゃなくて、仲良くなる方法を考えた方がいいのかもね。

 

あー、いいかもね。ちょっと初めての感覚だな。

さみしさと一緒に生きていく覚悟をする、というか。
もう気質としてあるなら、どうあがいてもなくならないだろうし、だったら仲良くなった方がいいもんね。

さみしさと仲良くなる、かぁ〜〜〜。がんばりたい。

さみしいよねって、さみしさ起因の心の動きや行動に対してもなんでも受け入れて、よしよししてあげるといいのかもなぁ。

 

私の人生のキーワード感あります、「さみしさ」。

仲良くなれるといいなぁ。